ひとりごと

私は制作に当たって、すべての条件を整えて実作に入ります。 その際に、こういう文句を私の中心に据えています。

「リキまず、チカラ強く、何も考えず、思いっきり」

ある日突然誰からか私に語りかけてきた言葉でした。 その言葉の主は、未だ誰かは分かりませんが、誰であるかはたいした 問題ではなく、その言葉はまるで水がスポンジに浸透する様に、確実 に私の身体の中の細胞たちに浸っていきました。 あるいはその言葉の持つ響きは私の細胞たちに共鳴しました。  

・・・・制作メモ('95.5)より抜粋

初めて画面に現れた私の絵は、私のものとは全く別物で、 「なんて変な絵なんだろう。もっとここは...この色も...」という様に、 実際の絵と違う所ばかり捜していた。 それは、初めてテープレコーダーで録音した自分自身の声を聞いた時、 「こんな変な声だったのか・・・」と思ったのに似ていた。

フォーマットが違うから所詮、色やマチエール等も再現しきれないのでは ないかと思った。 彫刻作品には台座があるし、絵画には額縁がある様 に、その表現形態にはその作品が収まる場が必要である。
モニターで映える図はCGという必然とも言えるあのぎこちない動きの 3Dの人形たちが試行錯誤している。でもそれはリアルだと評価されて いる今なのである。

ホームページの私の絵は単に絵があるという情報で、絵の内側の情報 まで再現できないのではないかと、あるミュージシャンに問いかけて みたところ、「古い小さなラジオから微かに聞こえた音楽を聞いて、 何となく惹かれてCDを買って聞いたら、やっぱりその音楽に感動した 事もあるよ。」と言われた。
その会話の後で私は思った。私はこれから先もこのホームページで絵を 発表し続けることができる。 表現の伝達媒体には、この際あまりたいした問題はない、と。

コンピュータの世界では2Dから3Dの探求が始まり、絵画では遠近法で 2Dを越えようとした歴史がすでにあった。今私が表現した絵については 決してその次元の問題意識はないと思う。逆に1Dに向かっているのかも しれない。

昔、私はリアリストと自称していた。今でもその文句こそ言っていないが、 本当(?)のコトを表現したいと思っている。

・・・・97年1月17日



太陽シリーズ、「太陽光の軌跡」の制作メモ

焦点が固定し、こげ始め、光が定着したとたん、こげ点から焦点が微妙にずれ始める。私はその微妙にずれていく焦点の動きにフォーカスし、しばらくの時間を費やした。

板を左手に、レンズを右手に、太陽光を集める。
まず、板の上に現れる大円はサイズを変え、やがて点となり、板をこがし始める。そこまでのプロセスで実に面白い事に気づく。

大円から点になるにつれて、板を持っている左手の指の感覚の微振動が激しくなることに気づく。
後に、焦点の合う時は、目を閉じていても分かるようになった。既にその時は指先の感覚だけではなく、全身である種の変化を受け止めている事に気づく。足のヒラ、頭のてっぺん、両耳の下側の首、etc.、意識を向ける身体の部位それぞれで何らかの変化を感じた。

太陽光をレンズという道具を使って集める、実際に焦点が定まると こげるというフィードバックがそれまではあった。
今、ここで身体の変化というフィードバックを確認した。太陽光というエネルギーだけでなく、仮に別のエネルギーでも、何かを使って焦点を作る事ができれば、その時きっと私の身体にフィードバックされる事だろう。

さて、愛のエネルギーとは何によってフォーカスされ、どの様なフィードバックが起きるのだろうか・・・。私の中で、今かすかに「意識」という言葉がよぎった。

1997年5月17日

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Field Work 97-7「大地の中心へ向かう直線をひく」の制作メモ

私の胴体と同じくらいの石を全身でささえながら、片手で要(カナメ)の小石2ヶをバランスのとれる所に微妙にずらしつつ探りながら置き、両手をはなす。石は静止する。そのプロセスで数分間、石と私は一体となる。

要石

その石を立たせるために使う「要の小石」と、さらに「何か」。
私自身の身体をただ立たせるために使っている「筋肉」と、さらに「何か」。
この「何か」の微妙な共通点に私は興味深いものがある。
皆さんも是非遊んでみて下さい。

遊び

1997年7月1日

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「ミラー・シリーズ」の制作メモ

こちらをご覧下さい。


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